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忘れられない中学一年の洪水経験を

 上野英夫
 株式会社 上野電気設計事務所 代表取締役

 私は、江戸川区松江に生れ育ち、昭和22年3月、区内西小松川(現松島)に、関東第一高等学校の併設校として開校した関東第一中学校に入学した。その中学1年の9月、かの有名な超弩級台風「キャサリン台風」が紀伊半島沖から関東地方すれすれに房総半島をかすめ三陸沖に抜け、関東平野に未曾有の大豪雨を齎し、利根川に流入する大雨水によって16日瞬く間に渡良瀬川の栗橋の大堤防が決壊した。

 当時はNHKのラジオ放送が情報源の時代であり、臨時ニュースにより大型台風による集中豪雨の災害状況、特に栗橋堤防決壊後の大洪水の状況が時々刻々伝えられた。隅田川以東の水深ゼロメートル地帯に居住する市民はラジオに齧り付いて、堤防を決壊した洪水の予測される進路情報や、洪水を堰きとめる堤防の土嚢嵩上げ工事の進捗状況に一喜一憂し、さらに、東京都や区の災害対策本部からの緊急情報によって、洪水の行方をあれこれ推測した。

 栗橋の堤防決壊後の大水流は遅々として進み、私たち荒川放水路の近くに住む住民は、満潮が近づく夜半に、大挙して放水路に架かる小松川橋に押しかけ、満潮時に東京湾からの上潮と上流からの濁流が合体して濁水が溢れ、あわや危険水位に近づくのをこわごわ見下ろし、あと2メートル、あと1メートル水位が上がったら堤防は決壊し、上潮と濁流によって江戸川区中は水浸しになるぞと不安にうち震えつつ中川・荒川放水路を覗き込んだ。

 満潮が極まり、荒川と中川の橋脚が見えなくなる危険水位近くまで濁水が充満し、さてその後水の流れは上潮から引潮へと変わる。それからが大変恐ろしき光景で、上流からの泥流の波に乗って、本箱やゲタ箱、ちゃぶ台、畳や布団などが轟々と押し流されて来る。いったい何処の村落を押し壊し、何処の町並みを押し潰して流されて来たのか、堤防を決壊した大洪水が埼玉南部の農村地帯の農家や民家を強襲し、家具や家財道具を押し壊し、荒川・中川の流れへと押し流したのです。何日もの間このおぞましい光景を目撃した。
カスリーン台風による総武線平井駅(江戸川区平井)の水害状況

 そして、桜堤を押し越えた大水流が遂に葛飾区水元さらに綾瀬を過ぎ、9月20日午後、私の住む江戸川区松江の路地まで押し寄せて来た。区内の学校はずっと休校で、近所の仲間とベーゴマ遊びをしていた午後、情報としては間もなく洪水がやって来るハズの時刻、遊びのさ中気がつくと、家の前のドブの水が溢れ出てきた。瞬く間に水は溢れ出し、慌てて少年たちは水だ!大水だ!と叫びながら家々に駆け込んだ。この目で目撃したわが街の洪水の始まりです。

 なお、各家庭の畳や家具、家財道具は1・2日前に、近所同士手伝って押入れの中仕切りの上に積み上げ、とりあえず洪水への備えは終わっていた。現実にこの松江では、わが家は確かに押入れの中仕切り下まで水に漬かった。そこで浸水は停止し家財の大半は助かった。

 その後、2・3日、洪水の濁流は船堀街道を葛西に向けて急流の水路を作り、水中を泳いで街道の反対側に渡ることが容易でなかったと、泳ぎ巧者の兄から聞かされた。

 当時父は東京電力に勤務しており、被災した社員の家族は墨田区内に建設したばかりの会社の施設に集団避難することに決まっていたので、私と母は着替えと洗面道具、学用品などを持参し、会社の建物に避難し、江戸川・葛飾に住む約15世帯との避難生活が約2週間続いた。

 2年後にもう1回水害に襲われたが、この時は洪水に即応し避難はせず、中学3年の私も家財の中仕切り上への積み上げを手伝い、洪水も前回ほど酷くなく5日間程度で水は引いた。

 さてあれから55年、台風が東京を直撃したらどうなることか。テレビや新聞で洪水.水害の惨状を見聞きするたびに、ゼロメートル地帯に起居する私は、水害による生活破壊の恐ろしさを考えると胸が慄きます。スーパー堤防実現のためにこそ、水害の恐怖を体験し、なおこの地に生活を営む者が、なすべき行動を展開・実施しなければならないと思うのです。

                                    H15.9.27  上野英夫