活動の年次記録

葛飾区立松上小学校6年生へ寺島講師の特別授業(2017/01/14)

葛飾区立松上小学校6年生へ寺島講師の特別授業(葛飾教育の日)報告

平成28年度(上期)葛飾区地域活動団体助成事業

 

 テーマ: 新小岩のまちと水害について

 日時:  平成29年1月14日(土) 午前10:45~11:30

 場所:  松上小学校体育館

 対象:  第6学年生58名、先生3名、保護者28名

 内容:  当NPOは、「親子で語り継ぐ大水害時の避難について」をテーマに、新小岩地区の各小学校や保育園で講演会や特別授業を葛飾区の助成を得て東日本大震災以降続けており、今年度も既に2校の小学校と1保育園で行っている。

      冷え込みの厳しい寒中の体育館の一角だけが、赤々と大型石油ストーブが燃え、授業開始と同時に生徒達は静かに着席、先生の「よろしくお願いします!」の掛け声に続いて元気な声が館内に響き、寺島講師の特別授業が始まった。

冒頭講師は、「皆さんが他所の人に『新小岩ってどんなところ?』と聞かれたとき直ぐに答えられるよう私の話しを覚えて置いて下さい。」と語りかけた。

 

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まず「荒川って自然の川それとも掘った川?」と聞いたところ、多くの生徒が「掘った川」と答え、次いで「昭和3年『新小岩駅』が、昭和7年『葛飾区』が出来、更に昭和22年『カスリーン台風』が襲って、学校内に建っているポールの上の方まで水が浸かったことを示す赤印を見た人は?」の質問に数人が手を挙げた。

「最後が昭和47年『公害防止条例』が出来たことで、これらは、今の新小岩にとって大変大切なことだったのです。」と、生徒の反応を見ながらスクリーンに小さな祠を映し出した。

「この祠を知っている人?」と聞くと何名かが手を挙げた。

「これは、『銭亀神社』と言って17世紀頃『間栗の入り江』に無人の難破船が漂着し中に千両箱が入っており、地元の人は有難く村のために使わせて頂いたお礼に、祀った神社です。」と、小学校近くの住宅街にある小さな神社を紹介した。

講師は、次に明治10年代ごろの古地図を画面に示し、「昔、農家の人達は都会の人から新小岩の稲は、①背が高く、②穂もまばらで、③籾が少なく『三度びっくり』されていたが、地元の人達は『いいじゃないか逆にびっくりさせてやろう。』と、この稲をしめ縄にして、また葦の枝を盛り蕎麦の皿に載せる『ざる』用に編んで、時期になると高い値段で浅草へ売りに出し、農閑期には「ふ海苔」を作って生計を立てていた。このため東京の街中を『糊の利いたパリッとした着物姿の娘は上平井の娘だとすぐ分かる。』と評判になった程でした。」等、新小岩に住み慣れている生徒達も初めて見聞きすることばかりだったためか、興味深く講師の話に引き込まれていった。

「水田や蓮田だった小岩は関東大震災後、都市計画で工場地域に指定され、荒川を掘った土と石炭の燃え殻で埋め立てられ、工場が建ち始め新小岩駅が出来ました。でも人はやって来ませんでした。しかし、昭和7年南葛飾郡が葛飾区になり水道が引かれると人々が集まりだし、工場の街『新小岩』が発展するようになりました。」と言いながら、スクリーンに新小岩の変遷を次々と映し出した。

 

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新小岩の工場で作られたセルロイドの人形が外国で高く売れ、又戦時中『B29』を撃ち落とせる戦闘機『キ54』の部品を作り、金町に外から分からないようにして送っていたことや、戦後間もなく関東地方を襲った『カスリーン台風』へ話題が移る頃、生徒達は目を輝かせ、食い入る様に講師の話に聞き入った。

特に、「カスリーン台風」で荒川の堤防が切れ、葛飾区一帯が何週間も水に漬かり屋根で水上生活をしている人に、救援物資を運ぶ船が足りず筏を組み、又米軍のボートが活躍したことなどを、当時の写真とスケッチ画で説明すると生徒達は一様に吃驚、信じられないといった様子だった。

講師は、「その時の体験から街のコミュニティーが育まれ、人の繋がりが深まりました。特にここ新小岩は、町会ぐるみで防災対策が進んでいる全国有数な地域であり、誇れる街です。一方新小岩には色々な人達が住み、テレビでも活躍しています。これも水害の度に経験した人々の絆の賜物です。これからは都市型水害が頻発し、その際の避難にはお隣同士が助け合い、知恵を出し合い、水害に立ち向かう連帯意識が必要です。そのための防災訓練が欠かせません。」と強調し、授業を終えた。

身近な新小岩について珍しい話の連続で生徒は勿論、後ろの席に急遽椅子を次々に足して聞いておられた保護者の方々も、講師の話に引き込まれた45分間授業だった。

この特別授業を行うに当たり、渋谷校長先生はじめ教職員先生方の一方ならぬご協力に心より感謝申し上げます。

 

 

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